菊乃井・村田吉弘さんインタビュー【インタビュー傑作集】

季節によってさまざまに表情を変える、自然豊かな東山。その懐に料亭「菊乃井」があります。大正元年に創業して以来、京都を、そして日本を代表する料亭として多くの人に愛されてきました。今回お話を伺ったのは3代目当主の村田 吉弘さん。「料理人の使命は料理を通じて社会貢献をすること。料理の技術をわかりやすく一般の人にも伝えること。」との信念から、雑誌やテレビなどさまざまな場所で京料理のPRを続けていらっしゃいます。一方で、「和食とは、京料理とは何か」といった問いを常に自分の中に持ち、前例や慣習云々にとらわれず常に合理性を追求する闊達な料理人としても知られています。今回は、料理を作るとはどういうことか、村田さんの考える京料理とはどのようなものかを聞きました

※本インタビューは2012年に行いました。

Q、中学を卒業したら修行を始める料理人も多いと思いですが、村田さんは大学にまで行かれてますよね?学校へ行きながら、料理の勉強もされていたのですか?

 いや、自分にも何か手伝えることがあるんちゃうかと思って調理場に入ったりすると、親父が「お前は学生やろ、学生の本分は勉強することや。出て行って本でも読んどけ」と言ってすぐ追い出された。もともと、「親の七光りなんてまっぴらごめんや」と思っていたし、料理は大学を出るまで全くやりませんでしたね。

 

Q、大学を出るとすぐに、料理を学ぶためにフランスへ行かれてますよね。卒業したら料理人になろうと決めていたのですか?

実は、大学の時に民青(民主青年同盟)に入っていたんです。青ヘルをかぶり、角棒を持って、デモをしたりしていた。国家に反抗する学生運動というやつですよね。同時に、ゴルフ部にも入っていたから、車の中にはゴルフクラブが常に入っていた。デモの途中に「あ、ごめん、ゴルフやわ。またな」とか言って角棒置いてゴルフ場や(笑)。学生運動は政府を倒すための庶民運動やけど、ゴルフって富裕層のスポーツやんね。そうやって、変な矛盾を楽しんでいた。その頃から物事を多面的に見る癖がついていたんだと思います。

自分の国の将来を真剣に考えたり、身近なひとつひとつについて徹底的に議論したりしてた時期やったと思います。「金魚に精神はあるか」なんてね(笑)。今思えば笑い話だけど、真剣だったんです。この時に過ごした時間は、ほんまに大きな財産やと思うね。議論した結果、人間は結局利己的やと思った。突き詰めれば、自分だけがよければいい。自分のしたいことだけしたい。それが本質やと思ったんです。マルクスやレーニンの考えは確かに素晴らしいと思ったけど、社会よりも自分が一番なんちゃうかと思ったら、急に冷めたねえ。人間は利己的だとふまえたうえで、自分のしたいことが、みんなのためになる、それが一番理想的やと結論づけたのが学生時代でした。

で、卒業してすぐフランスに行った。フランス料理の方がおしゃれでかっこよく見えたから。フランス料理の勉強もした。でも、フランスで食べた日本料理の味に愕然としたんや。このまずいものが日本料理か、と。フランス人にそれが日本料理だと思われることが心底恥ずかしかったんやな。日本人のプライドみたいなものがあったんやろな。それで、日本料理をやろうと決めた。自分に与えられた使命はこれなんや、自分はこれで生きていくんや、と決まった瞬間やったね。その瞬間から、利用できるものは何でもしてやろうという気になった。親の七光りだろうが七十光だろうが、引き受けるべき奴が引き受けて、責任を全うすることが世の中への貢献なんやろうと。やる気になったら必死になったし、素質もあったのか、技術を覚えるのは早かったね。


Q、料理の世界にも、生まれ持った才能の世界、努力しても及ばない天分の世界というものがあるのですか?

僕は、世の中に差別はないけど区別はあるんちゃうかと思ってる。課せられてる使命というか、責任というか。その意味で、世界は全然平等と違うと思う。代々医者とか、家族みんな弁護士とか、政治家なんておかしい。それに向いてる奴がすべきことであって、向いてる奴がその使命を果たせるような社会の仕組みが必要なんと違うかな。ただし全員が全員、何かを成し遂げられるかというと、そうでもない気がするわ。たとえば、「一流の料理人は、たくさんいすぎてもそれはそれで困る」という現実がある。日本にレストランが1万軒あれば1万人の料理長しか必要ないわけで、調理場の中が全員料理長やと困ったことになる。それでは料理は成立せんわな。好きなことで食べていけるというのはそれだけで幸せなことや、自分は料理長に尽くすんやと思ってどこかで線を引かなあかん料理人もいるわけやな。

 別の問題として、「能力をわきまえる」ということは実は非常に難しいんよな。「自分が、何をわかってないかをわかる」ことや、「何が出来ていなくて今何をすべきかをわかる」ことこそセンスが必要。本当の意味で「わかってない」人は、「何がわかっていないことがわかってない」わけや。「そこのそれ、直しておけ」といっても何がおかしいかわからないから、どれを直せばいいかわからない。「そこの掛け軸、ちょっとおかしいんちゃうか」と言っても、わからないやつはどこがおかしいのかわからずに「斜めになってますかね」とか言う。わかってなければいくら努力してもだめで、その意味では「人一倍努力すれば何とかなる」なんてのはウソやと思うなあ。悲しいかな、人が持っている可能性には差があると思う。でもそれを、はっきり言う人は少ないわな。

 

Q、でも、それを理解するのはなかなか難しく、つらいことですよね。

そうやろなあ。特に多いのが、知識はあるけど知恵がない人。魚を下ろすにはこうして、こうすればいいとか、火を通すときにはこうやればいい、みたいな知識だけあるけど、じゃあそれを実際の料理にどう活かしていったらいいのか、そこに知恵がない人がほんまに多い。それはまさしく、「魚を下ろすとはどういうことか、なぜ下ろす必要があるのか」とか、「火を通すことはどういうことか、火を通すと素材にどういう変化が起きるのか」という考えが足りひんのやな。料理の世界のような職人の世界では、技術を引き継いでいくことよりもむしろ、こういう考え方の部分を引き継いでいかなあかんのちゃうかなと思う。

だから見て盗めるようなものだったら教えてあげればいいし、自分で学べるような内容なら誰でもできる。そういう表面的な技術の話ではなく、それを超えたところに本質があるんやと思うわ。一子相伝とよく言うけど、たいていの場合、技術ではなくて考え方が伝えられてる。技術だけなら一生かからなくとも教えられるわけで、長い時間をかけて教えるべきなのはそういった「ものの考え方」や「ものの見方」と違うかな。

 

Q、菊乃井の考え方とは何ですか?

「美しくて浮花ならず、渋くして枯淡ならず。情あり才あり気あり。」浮わつかず、地味すぎず、情と才能と気力で料理を作っていく、ということ。

 

Q、そのために、どんな工夫をしているのですか?

簡単に言うと、「わかる奴にまかせる」ということやね。玄関前の石畳も、檜皮葺きの屋根も、ふすまの張り替えも、壁の塗り替え、天井を洗うのも、日本で数人しかいない職人にまかせてある。いくら僕が菊乃井の代表と言っても、「お前は料理人や、大工の世界では素人や。だから口出しせんと俺にまかしといたらええ」とピシャリですわ。僕も彼らなら絶対ちゃんとした仕事してくれると思ってるから、全てまかせます。料理も同じ。完全分業制です。僕は誰が何をできるかを見極めるだけでいい。そいつにやらせといたら、あとはうまくいくんです。

 料理は一種の空間芸術なんです。提供しているのは「食」ではなく「食事」。料理が全てと考えず、それにまつわる全てのものを引っくるめた「楽しい時間を売っている」と考えてます。つまり演劇やコンサートと同じ。各専門が自分の最高の演出をして、お客さんに楽しんでもらうんですわ。

80歳のおじいさんが、春にここへ来て、満開になった桜を見ながらフキノトウを食べてはった。このおじいさんは、一口食べただけで涙が止まらなかった。生きてる値打ち、生きる喜びを、食を通じて感じたんやろうね。言ってしまえばたかがフキノトウでしょう。でも、完璧に演出された中で、心を込めて出せば、涙を流させるくらい感動させられる。そういった、一生記憶に残るような「食事」を提供したいと思ってるんです。こんな大層な例を出さなくても、彼女と一緒に食べる料理は安くてもおいしいし、嫌いな奴と食べるとどんなええ料理も台無しでしょう。記憶の中に残るのは、味よりもむしろ情景だったりしますよね。受験に失敗して、帰り道に寄った喫茶店で泣きながら窓越しに見た雨とか、レストランで結婚を申し込んだ時、ゆらゆらゆれていたテーブルのロウソクとか。ひとつひとつに心を込めて、相手の心に届けたいという気持ちだけは絶対に忘れたらあかん、と思うんです。

 

Q、もう、論理とか合理とかじゃないですね。

人間の心はもともと不合理なもの。損得じゃはかれないし、計算もできない。だから恋愛に悩んだりするんよね。日本はだんだん経済第一になってきてるから、合理的な論理的な動き方をするようになってきている。合理的な社会は不合理な人間にストレスを与える。そうすると、社会が歪んでくる。不合理なものは、ますます魅力的になる。不合理なものは本能的な部分を刺激するからなんやね。

だから、緻密に計算された六本木ヒルズみたいな超高層ビル見たって感動しないでしょう。「あー、そうなんや。確かにすごいな。それで?」と。それよりも、100坪の土地に20坪しか建物がなくて残りは庭、みたいなお寺や神社に行って桜やモミジを見ると、ホッとする。100人入れる土地に100人入れる建物建てるよりも、100人入れるのに20人しか入れない建物の方が人を喜ばせることができるんよな。不合理は人にあれこれ考える余地、解釈する余地を与えることができるから、そちらの方が楽しめる。映画でも、合理的なストーリーよりも理不尽だったり不合理なストーリーの方が楽しかったりするやろ?計算された不合理がテーマなんです。合理、というのもたまたまその時代や流れにそった常識の中で考えていることやから、なんかひとつ狂うとたちまちシステムが崩れてしまうわな。合理性を保つには、時代に合わせて変化せざるを得なくなる。でもある程度巨大化してくると、そんな簡単に変化したりもできなくなる。だから結局、時代の合理を追求すると崩壊は避けられなくなる」と思ってます。